<磁石プロの視点>
AIの進化が急速に進むにつれ、AIデバイスの電力消費が課題となってきました。その課題の解決策の一つとして磁気抵抗メモリ(MRAM)が期待されています。そしてこのMRAMはこれまで、データを記録する磁気トンネル接合(MTJ)素子に強磁性体が用いられてきました。この強磁性体を反強磁性体に置き換えれば、動作周波数をGHz帯からTHz帯へと飛躍的に向上させることができ、さらに省電力且つ超高速のMRAMが実現できることになります。
このためには、交換バイアス効果により磁気情報を記録する強磁性層の特性を別の磁性層(一般には反強磁性層)との磁気的な結合によって安定化・制御する手法が必要になります。しかし、この効果は従来、室温において、温度を変えずに形成・制御することが困難であり、そのためには磁場中冷却を必須と考えられていました。
本研究は、これらの効果を室温で磁場を印加するだけで可能にし、さらに接合する強磁性体を変更することにより交換バイアス効果を制御できることを明らかにしました。これらの研究成果により、より省電力、より高速なMRAMが実現可能となり、次世代のスピントロニクスデバイス、AIデバイスへの応用、発展が大いに期待できると思われます。
プレスリリース*東京大学・科学技術振興機構(JST):2025年6月17日
<ワイル反強磁性体による交換バイアスの室温制御に成功>
--新奇な磁気秩序を活かした機能設計が導く、スピントロニクス技術の新展開--
<発表のポイント >
◆特徴的な磁気秩序をもつ反強磁性体と強磁性体の接合界面で磁気結合を確認。
◆従来必要とされた「磁場をかけながら冷却する操作」を行わず、室温・等温条件で交換バイアス効果を制御できることを実証。
◆室温で動作する反強磁性体の新たな電子機能の開拓により、次世代スピントロニクスデバイスへの応用が期待される。

Mn3Sn/強磁性体2層膜における交換バイアスの等温磁場印加による制御
Mn3Sn/強磁性体2層膜における交換バイアスの等温磁場印加による制御 概要 東京大学大学院理学系研究科の朝倉海寛大学院生、肥後友也特任准教授(研究当時)、中辻知教授らによる研究グループは、ワイル反強磁性体Mn3Sn(注1)と強磁性体との接合界面において、磁気的な結合に由来した交換バイアス効果(注2)が現れること、この結合・交換バイアス効果が室温において外部磁場によって制御可能であることを明らかにしました。 交換バイアス効果は、低消費電力・高耐久性などの利点をもつ不揮発性メモリとして実用化が進む磁気抵抗メモリ(MRAM)(注3)において、磁気情報を記録する強磁性層の特性を別の磁性層(一般には反強磁性層)との磁気的な結合によって安定化・制御する手法として広く用いられています。しかし、この効果は従来、室温において、温度を変えずに形成・制御することが困難と考えられていました。 本研究では、反強磁性層として、カイラル反強磁性秩序(注 1)という特徴的な磁気秩序をもつワイル反強磁性体 Mn3Sn を用いて、強磁性層との磁気的な結合に関する評価を行いました。その結果、Mn3Snのカイラル反強磁性秩序と強磁性層の強磁性秩序(磁化)との間に、磁気的な結合が形成されることを確認しました。さらにこの結合により生じる交換バイアス効果が、①一般的な磁場中冷却(注 2)手法に加え、②室温で磁場を印加するだけの簡便な方法(等温過程)、③接合する強磁性体材料を変更することによっても制御可能であることを明らかにしました。
これらの成果は、特徴的な磁気秩序をもつ反強磁性体を用いることで、強磁性体の磁化状態を柔軟に制御する新しい設計原理を提示するものであり、磁気メモリ素子の作製工程の簡略化につながる可能性があります。また、強磁性体と反強磁性体の新規な磁気結合を活かしたスピントロニクスデバイスのさらなる高機能化に貢献することが期待されます。とりわけ、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業において推進されているスピントロニクスと光電技術の融合デバイス開発に対し、本研究はその中核を担うワイル反強磁性体Mn3Snに新たな電子機能を付加する成果であり、磁気結合がもたらす磁気情報の新たな制御手法の実現は、次世代情報デバイスの設計と実装に向けた大きな一歩となることが期待されます。
<発表内容>
-研究の背景 -
デジタル化や AI の急速な発展により、情報処理の低消費電力化が急務となっています。こうした流れの中で、省電力性と高い書き換え耐性を兼ね備えた不揮発性メモリである MRAMへの期待が高まっています。MRAMでは、情報の記録や読み出しに用いられる磁性体に、別の磁性体を積層することで界面に磁気的な結合(注 2)を生じさせ、この結合を利用して磁性層の特性を制御する手法が広く採用されています(図1-左)。なかでも、強磁性体と反強磁性体の間で形成される「交換バイアス効果」は、記録情報の基準となる磁化の向きを安定に固定する“磁化固定層(注3)”の形成に欠かせない技術です。この交換バイアスは磁場を印加しながら冷却する磁場中冷却などによってつくられますが、一度形成されると温度を変えることなく(等温のまま)制御することは困難であることが知られています(図2(a))。

本研究では、左図の従来のMRAM内の磁化固定相(強磁性体)とピニング層(反強磁性体)の間の交換バイアスに着目しました(右図)。(本図は2024年5月、東京大学発表による資料から抜粋。)
本研究では、カイラル反強磁性秩序をもつワイル反強磁性体Mn3Snに着目しました。Mn3Snは、その特異な磁気構造によりマクロに時間反転対称性が破れており、さらにトポロジカルな電子構造を併せもつことから、磁化をほぼもたない反強磁性体にも関わらず、強磁性体に匹敵する異常ホール効果(注 4)などの巨大応答を示すことが知られています。また、この反強磁性秩序は、外部磁場や電流によって比較的容易に制御できるという特性を有しています。そのため本研究グループでは、強磁性体層に接合する反強磁性体層としてこのMn3Snを用いることにより、交換バイアスの制御性が飛躍的に高められるのではないかと考え、検証を行いました。

<研究内容と成果>
本研究では、スパッタ法を用いて、Mn3Sn層と強磁性層からなる積層薄膜試料を作製しました。この試料に対して、通常の磁場中冷却を加えたところ、強磁性層に交換バイアスが発現することを確認しました(図2(b))。この効果は、強磁性体の磁気状態を示す磁化などのヒステリシス曲線における磁場方向のシフトとして観測されました。交換バイアスのシフト方向から、特にパーマロイ(Py:Ni80Fe20)を用いた場合はPyの磁化とMn3Snのカイラル反強磁性秩序(秩序変数:磁気八極子(注1))を互いに反平行にしようとする反強的な磁気結合が働いていることが明らかになりました。続いてこの試料に対し、温度を変えることなく、室温で磁場を印加しMn3Sn の磁気秩序を反転させたところ、それに伴いPy層に生じていた交換バイアスの符号も反転することを観測しました(図2(b),図3)。また、この等温磁場印加によって誘起された交換バイアスの大きさは、磁場中冷却によるものと同程度であることも確認されました。 これらの結果は、Mn3Snの磁気秩序が強磁性層の磁気秩序と強く結合していること、そして従来困難とされてきた交換バイアスの室温・等温制御が本系で実現可能であることを示しています。

300 K(室温、約27 ℃)における+5 Tの磁場印加後(Mn3Sn +M状態)と-5 T印加後(Mn3Sn -M状態)で交換バイアスの符号が反転することを確認しました。
さらに、Mn3Snと接合する強磁性体の種類を変えることで、この結合の符号や強度が変化することも明らかにしました。強磁性層として(Py (Ni80Fe20))に加えNiや Feを用いた場合は、Mn3Sn の磁気八極子秩序と強磁性層の磁化が反対方向を向く傾向が見られました(図4)。一方、強磁性層を Co に置き換えた場合には、両者が同じ方向に揃う強的な結合が観測されました。このように、Mn3Snと強磁性層との間の磁気的結合は、接合材料の性質に応じて制御可能であることが示され、デバイス設計の自由度を高める新たな手段として注目されます。

<今後の展望>
本研究ではワイル反強磁性体Mn3Snを用いて、強磁性体の磁気状態の新たな制御方法を提案しました。本研究で用いたような異なる磁性体界面に発生する磁気結合現象は、使用する磁性体の種類や積層構造によって多彩な現象が生じる物性物理学の大変興味深い分野です。今回の特異な効果の発見は界面磁気結合の分野の発展につながることが期待されます。
本研究グループではこれまでMn3Sn薄膜の磁気状態のスピン軌道トルク(注5)を用いた電流制御(2020年および2022年にNature誌に発表:プレスリリース①、②)やトンネル磁気抵抗効果(注3)を用いた読み出し(2023年にNature誌に発表:プレスリリース③)、従来型の反強磁性体との界面における交換バイアスを用いた制御(2024年にAdvanced Materials誌に発表:プレスリリース④)など、Mn3Snのメモリ機能を示してきました。 本研究における成果は、Mn3Snを始めとする機能性反強磁性体の応用の幅をさらに広げるものとして、今後の反強磁性スピントロニクスの発展への貢献が期待されます。
〇関連情報: プレスリリース① 「ワイル粒子を用いた不揮発性メモリ素子の原理検証に成功」(2020/4/21) https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/news2.html?pid=10521
プレスリリース② 「反強磁性体における垂直2値状態の電流制御に成功」(2022/7/21) https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2022/7994/
プレスリリース③ 「室温で駆動する新しい量子トンネル磁気抵抗効果の発見」(2023/1/19) https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2023/8241/
プレスリリース④ 「交換バイアスを用いた反強磁性体の磁気状態の制御に成功」( 2024/4/26) https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/10317/
<発表者・研究者等情報 >
東京大学
大学院理学系研究科
朝倉 海寛 博士課程学生
肥後 友也 研究当時:特任准教授 現:慶応義塾大学 理工学部 准教授 兼:東京大学 大学院理学系研究科 客員共同研究員
松尾 拓海 博士課程学生 兼:ジョンズ・ホプキンス大学博士課程学生
対馬 湧太郎 博士課程学生
黒沢 駿一郎 博士課程学生
上杉 良太 研究当時:特任研究員(日本学術振興会特別研究員) 現:茨城大学大学院理工学研究科 助教
中辻 知 教授 兼:東京大学物性研究所 特任教授 東京大学トランススケール量子科学国際連携研究機構 機構長 ジョンズ・ホプキンス大学 Research Professor
物性研究所
浜根 大輔 技術専門職員
<論文情報 >
雑誌名:Nano Letters
著者名:M. Asakura, T. Higo, T. Matsuo, Y. Tsushima, S. Kurosawa, R. Uesugi, D. Nishio-Hamane, and S. Nakatsuji (* : 責任著者)
DOI: 10.1021/acs.nanolett.5c00988
URL: https://doi.org/10.1021/acs.nanolett.5c00988
<研究助成 >
本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業 大規模プロジェクト型「トリリオンセンサ時代の超高度情報処理を実現する革新的デバイス技術」研究領域(運営統括:大石善啓)における研究課題「スピントロニクス光電インターフェースの基盤技術の創成」課題番号 JPMJMI20A1(研究代表者:中辻知)、同 先端国際共同研究推進事業(ASPIRE) 量子分野(研究主幹:川上則雄)における研究課題「トポロジカル物質に基づく革新的量子エレクトロニクスの創成」課題番号 JPMJAP2317(研究代表者:中辻知)、同 戦略的創造研究事業 さきがけ「材料の創製・循環」(研究総括:北川進)における研究課題「トポロジーと磁性に基づく革新的半金属材料の創製」課題番号JPMJPR24M8(研究代表者:肥後友也)、村田学術振興・教育財団における研究課題(研究代表者:肥後友也)などの一環として行われました。
<用語解説>
(注1)ワイル反強磁性体Mn3Sn、カイラル反強磁性秩序、磁気八極子
電子はスピンと呼ばれる自由度をもっており、物質中の磁性の起源の一つとなっています。物質を構成する原子におけるスピンの配列により磁性体はいくつかに分類されます。一般に磁石として知られている強磁性体ではスピンが同じ向きに揃い大きな磁化の値を示しますが、反強磁性体ではスピン同士が互いを打ち消し合う方向を向き、全体としては磁化がほぼゼロとなります。一般的な反強磁性体では、スピンが反平行を向くことで打ち消し合っており、共線型反強磁性体と呼ばれています。一方、ワイル反強磁性体Mn3Snは図5に示すようなカイラル反強磁性秩序をもっています。その反強磁性磁気秩序は図中の水色の矢印で表されたクラスター磁気八極子により記述され、これが強磁性体の磁化に類似した対称性をもつことが知られています。

Mn3Sn はマンガン(Mn)とスズ(Sn)からなる格子面(カゴメ面)が[0001]方向に交互に位置を変えながら積層した構造をもっています。Mn 原子上の矢印が磁気スピンの方向を示しており、それらが互いに逆向きを向こうとする性質とMn原子の配置により、スピンが互いに120°を向いた反強磁性秩序を示します。右図中の水色の矢印は強磁性体における磁化に対応するクラスター磁気八極子を示しており、Mnスピンがつくる磁気秩序に応じて向きを変えます。
(注2)交換バイアス効果、磁場中冷却、界面磁気結合
図6に示したように強磁性体と反強磁性体(ピニング層)の接合膜を、反強磁性体の磁気転移温度(ネール温度, TN)以上(図6(a))から磁場を印加しながら転移温度以下(図6(b))まで冷却(磁場中冷却)すると、印加磁場の方位に応じて反強磁性秩序が秩序化します。この秩序化した反強磁性秩序は外部磁場などの擾乱(かく乱)に対してほとんど変化を示さず、非常に安定な状態となっています。強磁性体と反強磁性体の界面付近の磁性元素同士に磁気的な結合が生じていると、反強磁性体は冷却中の強磁性体の磁気秩序を安定化させるような作用を及ぼすため(図6(c))、強磁性層も外部擾乱に対して安定化します(交換バイアス)。この現象は、強磁性体に磁化の向きやすい方位を示す磁気異方性が新たに印加されたと見ることもできます。この効果は強磁性体の磁気状態を示す磁化などのヒステリシス曲線における磁場方向のシフトとして観測されます。

(a)ピニング層である反強磁性体の磁気転移温度(ネール温度, TN)以上におけるピニング層/強磁性体多層膜の磁気状態。通常強磁性体の応答を示す曲線は磁場に対して中心に位置しています。(b)反強磁性体の磁気転移温度以下まで磁場を印加しながら冷却した後の磁気状態。印加磁場(冷却磁場)の方位に応じてピニング層の磁気状態が安定化します。(c)外部磁場に対する応答をほぼ示さないピニング層からの交換バイアスで強磁性体の磁化も反転しづらくなります。この効果は強磁性体の応答曲線のシフトとして観測されます。
(注3)磁気抵抗メモリ(MRAM)、磁化固定層、トンネル磁気抵抗効果
磁気抵抗メモリ(MRAM)では、磁気秩序向きが1bitの情報として用いられます。磁気秩序は外部電源なしに保持されるため、電源を切っても情報が失われない省電力な不揮発性メモリとして用いることができます。MRAM内では図7に示すような磁気トンネル接合が用いられます。各磁性層は情報の記録を担う記録層、記録層の磁気状態の読み出しに用いられる磁化固定層、磁化固定層の磁気状態を交換バイアスで固定するピニング層に分けられます。記録層の磁気状態の読み出しには、記録層と磁化固定層の磁化が平行か反平行かにより抵抗値が変化するトンネル磁気抵抗効果が用いられます。

(注4)異常ホール効果
磁場を印加しながら電流を流すと電流・磁場両方に垂直な方向に起電力が生じることをホール効果と呼びます。強磁性体においては磁化の方位に応じてホール効果が発生することが知られており、異常ホール効果と呼ばれます。近年では強磁性体以外の物質でも、ワイル反強磁性体Mn3Snのように、波数空間における仮想磁場の発生により異常ホール効果を示す物質も知られています。
(注5)スピン軌道トルク
電流に伴う電荷の流れを、スピンの流れ(スピン流)へと変換することで、隣接する磁性体にスピンを注入し、磁気秩序を制御することが可能になります。このスピン注入により磁性体内部のスピンにトルクをスピン軌道トルク(SOT)と呼びます。電流-スピン流の変換には一般に変換効率の高い、白金などの重金属が用いられます。
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